東京大空襲のことをおばあちゃんに聞いてみた。

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戦後70年談話によって侃々諤々の議論が行われておりましたが、右も左もわからないプロレタリアな僕はいつもと変わらずに、龍馬伝を聴きながらパソコンでせっせと労働に明け暮れるのでした。

今年は例年に比べて、節目の年であったことや安倍首相の談話や9条改憲論争によって、結果的にメディアで”戦争”というものを見かける機会が多かったと思います。true or falseのboolean形式で声の大きな人たちが争っているのはさらっと拝見し、元兵士や被爆者、被災者の当時の方々の証言などはしっかり読ませていただきました。

ふと気付いたのですが、うちのおばあちゃんは栃木県の壬生で育ち、その後に池袋に出てきて以来同じところで暮らしています。つまり栃木生まれ池袋暮らしで悪そうなやつらはだいたい友達、ということです。そうです、こんな身近に証言者がおりました。

僕らが一般的に考える所謂”戦争”というものは対アメリカの第二次世界大戦をざっくりイメージしますが、昭和12年の支那事変の時点から日本は戦争状態にありました。おばあちゃん曰く、モノがどんどんなくなって不便にはなっているものの、戦争状態という実感はほとんどなかったそうです。

旦那である僕のおじいちゃんにあたる人は職業軍人として中島飛行機で働いていた(たぶん?)ようですが、戦地に赴く兵士ではなかったようで戦地の具体的な情報はおばあちゃんには届いてなかったようです。もちろん新聞やラジオはありますが、遠くの出来事感が大きかったようです。今のようにTVやインターネットの動画があればまた違ったでしょうけど、現実感は薄くなりますよね。

そうして次第に戦況は激しくなり、日本は攻撃を受ける時代に突入します。

池袋にいたおばあちゃんも空襲を受けるようになり、空襲警報を聞いて防空壕に逃げたり、家にあった物を被災しなさそうなところへ送ったりと本格的に戦争の恐ろしさを感じるようになっていきました。空襲が続く中、大きな被害はなかった池袋でしたが、東京大空襲の時に、ついに甚大な被害が出ます。

焼夷弾という可燃性の爆弾が投下されたことで木造家屋が多かった当時の街は火の海となります。おばあちゃんは北区の方向へ逃げたため、生き残りましたが、火の手を逃れて池袋の防空壕に逃げてきた人たちの多くは亡くなったそうです。住んでいた場所、逃げた方向によって命運が分かれたのでしょうか。

そして8月、焼け野原になった街の中、明日何か発表があるから集まるように言われたそうです。その際はきちんとした格好をして来なさいと。この時点で、日本が負けて戦争が終わるということが通達されるのだろうと考えたようです。

余談ですが、当時は天皇陛下を神様だと思っていたのか聞いたところ、敬う対象ではあると認識していたものの、人間であるとちゃんと認識していたようです。小学校の時の授業では、当時の人々は天皇陛下を神と崇めていたと習ったので、国民がみんな洗脳されていたのかと思っていました。

小学生の自由研究か何かで東京大空襲についての話を聞いて以来、ちゃんと話を聞いたことがなかったので、戦後70年というものに乗って話をきちんと聞いてみました。やはり、大人になってきちんと聞いておくべきだとも思いました。

おばあちゃんに戦争はどういうものだったか聞いてみると、

「ただただ怖い、恐ろしいものだった。」

と言っていました。

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